2.死への抗い
否、落下すると思われたそれは方向を変え、私の首を捕らえた。
「がっ…!」
悲鳴を上げる事すら許さぬというように、強く締め付けられる。
外そうと手を首にかけようとした瞬間、更に首のそれを引っ張られ、壁に叩きつけられた。
右肩を強く打ち、意識が遠のく。
「ここで何をしている」
聞こえてきたのは、男の声だった。
痛む肩を庇いながら、ゆっくりと顔を上げる。
ドクン、ドクン、
緊張した鼓動が聞こえる
だが、男の姿を見た途端、心臓は凍りついた。
漆黒の服
手に握られた荒縄…パンジャブの輪
そして何よりも彼を象徴する、顔の右側を覆う白い仮面
このオペラ座で彼を知らぬものはいない
そう、彼の呼び名は
『オペラ座の怪人』
殺される!
全身が震え、ぶわっと嫌な汗が出てくる。
逃げたい!
助けて!
ごめんなさい!
許してください!
叫びたいが言葉にならない。
いつの間にか目からは涙が溢れていた。
「…け……ださ…」
無意識に私は命乞いを始めた。
「…すけ…てく…さい…」
涙も鼻水が垂れ流れるのもそのままに、何度も何度も懇願した。
だが意識はどんどん遠退き、顔に循環できず行き場を失った血が蠢く。
「…んで…も…し…」
すると急に首の縄が緩まり、私はその場に倒れ込むと狂ったように咳をした。
「今、何でもすると言ったな」
まだ呼吸の整わぬままファントムを見上げると、ファントムは侮蔑の混じった冷たい目で私を見下ろしていた。
「ちっぽけで愚かなお前如きが私に何をするというのだ。
私にどんな利益をもたらすというのか。
さあ!言ってみろ!」
私はかつてない恐怖に包まれ、思わず地に目を逸らした。
ファントムの手はまだ、パンジャブの輪の端を掴んでいたままだった。
きっと、死に物狂いの命乞いを聞いた後、殺すつもりだ。
頭が回らない私でもそれだけは理解できた。
だけど、これは生き延びるチャンスでもあった。
私は何が何でも生き延びなければいけない。
その時、頭にある事がよぎる。
それは、楽屋で流れた他愛のない噂だが、
今は一か八かに賭けてみるしかなかった。
覚悟を決め、深呼吸し、再び視線を上げた。
「何か名案でも浮かんだか?』
ファントムは嘲るような邪悪な笑みを浮かべた。
「クリスティーヌの…情報を流すわ」
ファントムの表情が曇り、瞳が揺れるのを確認した。
信じたくはなかったが、どうやら噂は本当だったらしい。
私と同じ寄宿生で、
美しい声としなやかな肢体、誰よりも清らかな心を持ち、
皆に愛される存在―――
クリスティーヌ・ダーエ
その彼女が『オペラ座の怪人』にも愛されているという噂。
きっと根拠もない噂だとは思っていたが、
正直納得していた。
踊ることしか能のない私に比べ、彼女は年を経ていく度に美しさが増していく。
きっと何年もすれば、更に美しくなることだろう、と誰もが思っていた。
そんな彼女を、優れた芸術家である彼が目を留めぬ訳がない、と。
暫くの沈黙の後、彼は口を開いた。
「足りぬ」
冷静さを取り戻したと見られる彼は淡々と言った。
「娘一人の情報だけで私は危険に晒されねばならんのか」
確かに彼の言う事は分かるが、これ以外には思いつかなかった。
今度こそ終わりかも、と諦めかけた時、
またも考えが浮かんだ。
これなら助かるかもしれない…でも…
しかし迷っている暇などない。
今にもファントムが再びパンジャブの輪を引こうとしているのだから。
私は、自らの運命を決めた。
まっすぐ瞳を見つめ、条件を述べた。
「抱かれます」
あとがき
ファントムいきなり襲ってきて怖いですね;
しかも主人公さん大胆だ…
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